なぜ人は写真を撮りたくなる?写真から見えてくる、人が求めるもの
写真とは思い出や記念、ときには重要な記録として、わたしたちの日々の生活に彩りや刺激をもたらしてくれるものです。
今日ではスマートフォンなどの携帯端末で当たり前のように物や景色を撮影して、画像として収める人も多いのではないでしょうか。
今回はそんな「写真」をテーマに、人々が写真に何を求めるのか、写真を通して何を知りたいのかといったちょっとした謎について探っていきます。
一般的な学校の文化祭では、それほどめずらしくない頻度で「写真」の企画がお披露目されることがあります。その名の通りアナログの写真を使った展示会のようなもので、大抵は写真部や写真サークルによって運営されます。
学校によっては何らかのテーマに絞ったものが大量に撮影されていたり、ポストカードにしたものが無料で配布されたりと、見せ方が豊富である点がユニークですね。
また、撮影者による一言コメントが添えられたものだと親近感やネタらしさが増すので、筆者は割と好きです(笑)。
一見同じ写真でも、前者はよくある日常の風景や観光スポット、ちょっとした驚きの光景といったようないわゆる「映える」シーンを中心に撮影されたものをよく見かけます。
対して後者はそれ以外にも、遠近感や臨場感といった、立体的もしくは洗練された構図(黄金比など)を意識したような写真が多く見られる傾向があります。
高校までと大学とで、撮影者の感性やこだわりに違いが表れるのはなかなかに興味深いと思うので、祭りで見かけたときはそのあたりも意識して眺めてみると面白いかもしれません。
その理由として大きいのが
この二つが由来しているのだと思います。
前者に関しては、たとえば「桜」などがわかりやすいと思います。桜は毎年春に咲いて見られるものですが、それがわかっていても反射的に写真に収めたくなる人はとても多いのではないでしょうか?
毎年と言っても実際に見られる期間はおよそ半月足らずなので、それだけ目に焼き付けたい衝動にかられても不思議ではありません。
後者については冒頭でも軽くふれましたが、もはや生活必需品とも呼べるスマートフォンなどにカメラが標準的に搭載されていることからも、その身近な存在感が見て取れます。
カメラを手に持ってシャッターボタンさえ押せれば誰でも気軽に撮影を楽しめるので、そういった意味でもこの上なくとっつきやすいですよね。
とっさにメモを取るのとほとんど変わらない感覚でカメラを使える(写真を撮る習慣が生まれる)のは、それだけで魅力的であると同時に、純粋に文化としての強みでもあります。
また、写真を撮りたくなる理由としてもう一つ挙げるとすれば、やはり「共有目的」が挙げられるでしょうか。
写真とSNSは特に相性がよく、中でもインスタグラムやツイッターはその代表格と言ってもいいでしょう。自分の好きなものや興味を抱いたものが周りからも注目されるのは、それだけで単純にうれしいものがあると思います。
言語の壁を越えて、一目で本質が伝わりやすいというのも大きなポイントです。
もちろん何事にも最低限のマナーはあるので、写真の世界でもそれに違反するのはご法度ですが、それでも前述のように写真はほとんどの人になじみがあることもあって、そうしたつながりを求めるうえでは極めて効率的な媒体と言えますね。
そもそも本来ならば、唯一無二のものを評価しようとすること自体がナンセンスなのではないか?と感じる部分もあります。
一見何気ないような景色でも、その人の写真の撮り方によっては同じものでも雰囲気ががらっと変わってきますし、当然その人ならではのこだわりなども含まれているはずです。
大衆に受けが良さそうな題材や構図などは大よそ決まっているかもしれませんが、それはあくまで美しさや見栄えを追求した一つの形に過ぎません。
写真に限らず作品の評価や印象といったものは、そのときの人の思考や気分、ときには時代によっても相対的にいくらでも変わってきます。
そこには正解なんてありませんし、ましてや他人の物差しで測れるようなものでもありません。その人の撮りたいように撮ったり集めたりするのが、一番「写真を楽しむ」ことにつながるはずです。
写真とはまさに、娯楽のあるべき姿が文字通りそのまま写し出されたものであると筆者は捉えています。自分にとって少しでも胸を張れるようなものであれば、それでいいとすら感じます。
このブログに載せている写真(画像)たちも、筆者にとってはそれぞれがこの世に二つとない誇りです…!
「自分の世界観を誰かに伝えたい(分かち合いたい)」という意志や欲求がある限り、人は写真を撮ることをやめないのでしょうね。この記事を書いているうちに、筆者も曲がりなりにも写真の魅力がわかったような気がします。
次の記事↓
本はいつかなくなるのか。文芸を通して「本」について考えてみる
今日ではスマートフォンなどの携帯端末で当たり前のように物や景色を撮影して、画像として収める人も多いのではないでしょうか。
今回はそんな「写真」をテーマに、人々が写真に何を求めるのか、写真を通して何を知りたいのかといったちょっとした謎について探っていきます。
そもそも写真とは?文化祭から見えてくる写真のイメージ
文化祭における「写真」
一般的な学校の文化祭では、それほどめずらしくない頻度で「写真」の企画がお披露目されることがあります。その名の通りアナログの写真を使った展示会のようなもので、大抵は写真部や写真サークルによって運営されます。
学校によっては何らかのテーマに絞ったものが大量に撮影されていたり、ポストカードにしたものが無料で配布されたりと、見せ方が豊富である点がユニークですね。
また、撮影者による一言コメントが添えられたものだと親近感やネタらしさが増すので、筆者は割と好きです(笑)。
高校と大学では写真へのこだわり方が違う?
ちなみに文化祭では、中学校や高校までの写真部の企画と、大学での写真の企画とではそれぞれの見せ方や印象に若干違いがあります(あくまで筆者の体感ですが)。一見同じ写真でも、前者はよくある日常の風景や観光スポット、ちょっとした驚きの光景といったようないわゆる「映える」シーンを中心に撮影されたものをよく見かけます。
対して後者はそれ以外にも、遠近感や臨場感といった、立体的もしくは洗練された構図(黄金比など)を意識したような写真が多く見られる傾向があります。
高校までと大学とで、撮影者の感性やこだわりに違いが表れるのはなかなかに興味深いと思うので、祭りで見かけたときはそのあたりも意識して眺めてみると面白いかもしれません。
なぜ写真を撮るのか(撮りたくなるのか)
なぜ、なのでしょうか?書いておいて何ですが、むしろ筆者が知りたいくらいです…。無責任すぎますね(笑)。写真を撮りたくなる大きな2つの理由
先にも述べたように、写真を撮る文化は昔から現在に至るまで幅広い層の人に根強く浸透していて、特段めすらしいものではありません。ですが、もう少しシンプルに考えると、写真(撮影)がいろいろな人から親しまれている理由が自ずと見えてくるはずです。その理由として大きいのが
- 「何かを手元に残しておきたい」という本能的な思考によるもの
- 写真(撮影)がほぼ日常生活の行いの一つにすっかり溶け込んでいること
この二つが由来しているのだと思います。
前者に関しては、たとえば「桜」などがわかりやすいと思います。桜は毎年春に咲いて見られるものですが、それがわかっていても反射的に写真に収めたくなる人はとても多いのではないでしょうか?
毎年と言っても実際に見られる期間はおよそ半月足らずなので、それだけ目に焼き付けたい衝動にかられても不思議ではありません。
後者については冒頭でも軽くふれましたが、もはや生活必需品とも呼べるスマートフォンなどにカメラが標準的に搭載されていることからも、その身近な存在感が見て取れます。
カメラを手に持ってシャッターボタンさえ押せれば誰でも気軽に撮影を楽しめるので、そういった意味でもこの上なくとっつきやすいですよね。
とっさにメモを取るのとほとんど変わらない感覚でカメラを使える(写真を撮る習慣が生まれる)のは、それだけで魅力的であると同時に、純粋に文化としての強みでもあります。
写真による「共有」の強み
また、写真を撮りたくなる理由としてもう一つ挙げるとすれば、やはり「共有目的」が挙げられるでしょうか。
写真とSNSは特に相性がよく、中でもインスタグラムやツイッターはその代表格と言ってもいいでしょう。自分の好きなものや興味を抱いたものが周りからも注目されるのは、それだけで単純にうれしいものがあると思います。
言語の壁を越えて、一目で本質が伝わりやすいというのも大きなポイントです。
もちろん何事にも最低限のマナーはあるので、写真の世界でもそれに違反するのはご法度ですが、それでも前述のように写真はほとんどの人になじみがあることもあって、そうしたつながりを求めるうえでは極めて効率的な媒体と言えますね。
写真に良し悪しは存在するのか
これは結論から言うと、少なくとも筆者にとっては写真に良いも悪いもないものだと始めから思っています。そもそも本来ならば、唯一無二のものを評価しようとすること自体がナンセンスなのではないか?と感じる部分もあります。
一見何気ないような景色でも、その人の写真の撮り方によっては同じものでも雰囲気ががらっと変わってきますし、当然その人ならではのこだわりなども含まれているはずです。
大衆に受けが良さそうな題材や構図などは大よそ決まっているかもしれませんが、それはあくまで美しさや見栄えを追求した一つの形に過ぎません。
写真に限らず作品の評価や印象といったものは、そのときの人の思考や気分、ときには時代によっても相対的にいくらでも変わってきます。
そこには正解なんてありませんし、ましてや他人の物差しで測れるようなものでもありません。その人の撮りたいように撮ったり集めたりするのが、一番「写真を楽しむ」ことにつながるはずです。
写真とはまさに、娯楽のあるべき姿が文字通りそのまま写し出されたものであると筆者は捉えています。自分にとって少しでも胸を張れるようなものであれば、それでいいとすら感じます。
このブログに載せている写真(画像)たちも、筆者にとってはそれぞれがこの世に二つとない誇りです…!
まとめ
- 写真(撮影)は日常生活の一部として溶け込んでおり、誰でも扱える手軽さが人気の要因とされる
- 趣味や意思の共有(伝達)手段としても、写真は非常に優れた媒体である
- そうした写真から生まれる共感や話題性を通じて、他者との「つながり」を求めたい人が多い(のではないか)
「自分の世界観を誰かに伝えたい(分かち合いたい)」という意志や欲求がある限り、人は写真を撮ることをやめないのでしょうね。この記事を書いているうちに、筆者も曲がりなりにも写真の魅力がわかったような気がします。
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本はいつかなくなるのか。文芸を通して「本」について考えてみる
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