本はいつかなくなるのか。文芸を通して「本」について考えてみる

は、人が物心ついたときからすでに身近にあふれているものですが、そもそも本とは一体何なのでしょうか。
今回は文芸の文化をもとに、本が人にもたらす影響やそのような本の未来について述べていきたいと思います。

本の魅力を引き立てる文化、文芸

本について話す前に、まずは「文芸」について簡単に紹介します。このブログのテーマ的にも順を追って説明するのは割と大事なこと(?)なので、どうかお付き合いください。

文化祭における「文芸」


文芸とは読んで字のごとく、文字や文章を用いた芸術文化の活動全般を指します。
おもに自作の本(小説)を部誌として執筆することが多いとされていますが、実際にはそれ以外にも特定の本について感想を語り合ったり、それを公開(レビュー)したりといったこともします。

文化祭では、写真や美術といった他のインドア系の企画と比べると、文芸は見かけるのが若干めすらしいポジションにあたると思います。企画の性質上そこまで派手な印象はないものの、そこがまた文芸らしい特徴でもありますね。

本や文書に関するものであれば、何でも出し物にしてしまうのが文芸の思い切った部分でもありますが、中でも目を見張るのは「リレー小説」と「ビブリオバトル」でしょうか。
リレーにバトルと、どちらも本のイメージらしからぬアグレッシブな響きですが、こう見えてもそれぞれ文芸のれっきとした代表的な出し物になります。

リレー小説について


リレー小説(または連詩)とは文字通り、ある一文の内容を各自で考えて、それをリレー形式で一文ずつ交代で書いていくことで一つの作品に仕上げるという、いわゆる「文章を使った伝言ゲーム」のようなものです。

当然ながら意思の疎通がうまくできないと文脈が乱れてカオスな物語が生まれてしまいますが、同時にそれは文芸だからこそ成立する面白さであるとも言えるので、筆者は結構お気に入りだったりします。
実際に文化祭でリレー小説の作品を初めて見かけたときは、その化学反応っぷりにいろいろな意味でど肝を抜かれました(笑)。

リレー小説は誰でも気軽に文章作りをを楽しめることから、シンプルに文芸の面白さが伝わりやすい企画です。見るだけでなく、実際にやってみることで初めてその楽しさがわかるという意味でも十分優れた出し物だと思います。

ビブリオバトルについて


ビブリオバトル(biblio:書物)とは、自分がオススメしたい本を一冊選び、一定時間(基本的に5分)以内にその内容や魅力を観客に伝えるという、いわば「本のアピール(プレゼン)合戦」です。
ちなみに紹介する本は文学作品のみならず、漫画やエッセイなどでもOKだったりします!

バトルとあるだけあって競技性が高く、実際に公式に基づいたルール(聴衆による投票制)もあります。これには筆者も驚きましたが、裏を返せばそれだけ一つの文化として定着、確立されている証拠であるとも言えます。

これまでに知らなかったさまざまなジャンルの本と出合えることもポイントですが、何より「不特定多数の人前で、自分の好きなものについて発表する」ことは想像以上に勇気がいる行為なので、これができる人はそれだけで賞賛ものですね…。

ビブリオバトルの観覧(観戦?)後には文芸のおとなしげなイメージはどこへやら、安易な先入観にとらわれることのおろかさを身をもって知りました(苦笑)。
静かながらもバトルの名に違わぬ白熱した見どころのある企画なので、じっくりと観覧することで本の世界がぐっと広がるかもしれません。

そもそも「本」とは何なのか

前述のように文芸から本に対する興味を深めた人もいれば、普段から趣味として読書が日課になっている人もいるかと思います。では、本はなぜそこまで人々を魅了するのでしょうか?

かしこくなるための「本」

本に対する印象としては、大体は知的博識といったイメージが真っ先に浮かびやすいですよね。「本が好きな人は頭がよさそう」という風潮は、今も昔もそれだけ根強いと言えます。

実際にありとあらゆる本には、筆者はもちろん大の大人ですら全く知らないような知識や教養といったものはごまんとあります。本とは、そうした人々の飽くなき探究心や好奇心をかき立ててくれる存在としても極めて重宝するものです。

本を読んだからといって必ずしも立派な大人や知識人になれるわけではありませんが、そうした理知的な人間に少しでも近づくためには、本はいつの時代もやはり欠かせないものになってくるのでしょうね。
それでも本音を言ってしまうと、本を一読しただけでかしこくなれるなら誰も苦労はしないのですが…(笑)。

イマジネーション(想像力)を培うための「本」


これは筆者の直感ですが、本が好きな人というのはおそらく「何かを想像すること」に対して、普段から強い興味やこだわりを抱いている人が多いように感じます。

先ほど紹介した「文芸に属する人」などは特に、イメージを描くのが楽しくて好き、もしくは得意な空想家たちがたくさんいるはずです。
ちなみに文芸は本以外にも、俳句詩集(いわゆるポエムやエッセイ)作りに取り組むところもあるので、表現力の幅や深さは底知れないものがあるかと思います。

それは誰かの心情であったり風景であったり、あるいは頭の中で主観と客観を行き来させることであったりとさまざまですが、言い換えればそれだけ、いろいろな視点から物事を考えられる習慣や柔軟さが身につきやすいということでもあります。

おもに文字だけの情報から、いかにイメージをふくらませることができるか。本は知識を得たり物語を楽しんだりするだけでなく、本を読むことそれ自体がある種の訓練、いわゆる効果的なイメージトレーニングにつながるのかもしれません。

ふと、本がなくなる日について考えてみる

ようやく本記事の本題ですが、そもそも本がなくなる日というのは本当にやってくるのでしょうか?
最近では電子書籍が徐々に普及してきていることもあるため、そう遠くないうちに物質的な意味で、いつかはそれが紙の本にとって代わるような日が訪れるのかもしれません。

筆者は紙の本にもデジタルの電子書籍にも、それぞれ良さがあると感じているのでそのあたりへのこだわりは薄い方なのですが、形はどうあれやはり本がなくなるというのは少しばかり寂しいように思います。
生活必需品でこそないものの、それでも当たり前のように身近に存在するあたり、本とはじつに不思議なものです。


今日では情報収集に用いる媒体はインターネットが主流になっていますが、では本の役目や優位性はどこにあるのかというと、筆者としては最新の情報伝達よりも、むしろ世界の歴史(伝記など)作品を伝えることの方にあるのだと考えています。

そしてそのだいご味は、本のページをめくることとセットで初めて最大限に味わえるものです。
本(紙)を手に取るときのあのぬくもりのある感覚が好きだという人は、それなりにいるかと思います。そういう人からの需要や供給がある限り、本が完全に廃れることはおそらくないのでしょう。

また、先ほど本とイメージの関係について述べましたが、見方を変えれば「人のイメージが尽きない(伝えたいものがある)限り、本は誰かの手によって書かれ、生み出され続ける」ものであるとも言えるはずです。
その一つが、まさに前述したような「文芸ならびにそれに属する人」なのだろうと思います。

紙とペンさえあれば物語は作れる、歴史を後世に伝えられるというお手軽さは、以前に紹介した「美術」や「漫画」の文化に通じるものがあります。文字の文化が続く限り、本もまた今後も人々から末長く親しまれ続けるのでしょう。

まとめ

  • 文芸は本や文字にふれる機会が多く、表現力や感受性を養ううえでも打ってつけの文化である
  • 本を読むこと(書くこと)とイメージは密接に結びついており、それを求める人がいる限り本がこの世からなくなることはおそらくない

思えば本を読める時間があるというのは、何気ないようでじつは想像以上に貴重なのかもしれません。そういう意味では、本は人の心を豊かにしてくれる象徴なのだろうとも感じます。

筆者の場合は時間そのものはあっても、本をゆったりと読もうという気持ちにはなかなかなれなかったりもする(他の娯楽を優先してしまう)ので、本をゆったりと読める時間や心持ちが欲しいというのは、日常の暮らしにおける一つの理想でもありますね。

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Niki Niki
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